クラブの歴史
日本書紀によると、神功皇后が甘木朝倉の豪族羽白熊鷹を倒したその安堵感からこの地で「我が心安し」と言われた「安」に由来するものだと語り継がれています。その「夜須町」の丘陵地におよそ30年前、昭和47年にゴルフ場建設の機運が高まりました。昭和47年、それは振り返れば戦後の日本が復興し高度成長期を続けた最後の年として位置づけられています。翌48年には石油ショックで低成長時代へと一転するのですが、特にゴルフ界では樋口久子プロや尾崎将司プロの活躍で一部の限られた人達のスポーツから大衆のスポーツとして競技人口が飛躍的に拡大した、そういう時でした。このような時期に、福岡市近郊で車でおよそ一時間という好立地にある風光明媚な夜須高原にゴルフ場が出来ると言うことは県内外からコースの完成を一日千秋の思いで待ち望まれるものでした。
建設することになったのは三和スポーツ株式会社。浮羽郡吉井町におよそ300年続く矢野家は素封家で薬種問屋・梅此花酒造・浮羽酒類販売(株)・矢野本家山林部を経営しておりました。ゴルフ場建設にあたり享保年間より続いた薬問屋と造り酒屋の由緒ある暖簾をおろしました。ゴルフ事業に進出した決意は並々ならぬものでした。一見なだらかに見える丘陵地はアップダウンのある山岳コースにするのであればそれほど手を加えなくてもいいのですが平坦なコースを造るとなるとそうはいきません。「広々と、平坦で、のびのびと」ゴルフ愛好者に広く門戸を開放することが経営者の使命でありまた先祖伝来の貴重な土地を提供していただいた地元の人の意向に添うものだという決断で昭和48年3月未曾有の大造成工事がはじまりました。「これほど素晴らしいゴルフ場ができるだけの土地がよくこの山の中にありましたね」昭和49年(1974)9月15日開場記念式典でそう言う言葉が飛び交ったものでした。この日が夜須高原カントリークラブの第一歩でした。